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自分の死について最近考えたこと

Nobo Komagata

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2012年10月21日初稿   2014年11月1日改稿


ここ数年の間に義父、父、祖母亡くなり、母も頚椎損傷と認知症で退を繰り返しています。同時に、自分の瞑想の実践絡み、死についての文献を読むことも多くなりました。そのような状況の中、自ずと自分の死について真剣に考えるようになりました。ほぼ10年ほど前までは死は怖くないが死ぬ過程、特に耐えられないような痛みが怖いと思っていました。しかし、最近は自分の死の過程に対する恐怖がかなり少なくなっていると感じます。これにはいろいろな要素があります。

ひとつの要素は、平穏死・自然死に関する本を読んで学んだことです。特に、日本ではこの分野の本が数多く出版されているのには驚きました。これは日本の病院や施設における延命地獄を反映するものに他なりません。これらの本で言われていることは、老人が自分から食べたり・飲んだりしなくなってから不自然な延命措置をとらなければ、自然に、安らかに死に至れるということです。人間誰もが死ぬにもかかわらず、現代社会では死が悪いもの、汚らわしいものとして遠ざけられてしまっています。自宅で老人が自然に死んでいく姿を見る機会極めて少なくなっています。病院は本来怪我や疾病を治療する機関であるのに、や出生や死亡をもつかさどる機関に変貌してしまいました。人工的な出産や過酷な延命によって、人々は必要以上の苦難を強いられています。多くの人はそれに気がついていませんでした。これに対し、人間の自然な死に方を目前にすることによって私たちは人生の本当の意味をよりよく理解できると思います。死の過程を恐れるというのは、歪んだ現代社会のかもし出す妄想なのかも知れません。もう一点有名な話ですが、1844年にアフリカ滞在中のリビングストン氏がライオンに襲われ大怪我をした時のことです。彼はライオンにかまれ瀕死の重傷を負うのですが、その最中には何も痛みを感じなかったというのです。これはホルモン(エンドルフィン)の分泌による自然の摂理のようであります。痛み自身よりも、痛みに対する恐怖のほうがより恐ろしいものではないでしょうか。

次の要素は、ここ数年原始仏教の洞察の瞑想を実践してきたことにより諸現象をありのままに受け止める姿勢が強くなってきたことだと思います。ここで重要なことは瞑想をすることにより痛みを避けられるようになるということでは決してありません。洞察の瞑想の重要な利点のひとつは痛みそしてあらゆる現象ををそのまま受け止め、それ以上不必要な苦難を経験する必要がなくなっていくということです。たとえば、寒いと思ったときに「ああ寒い・寒い、どうしよう」とあわてると、必要以上に苦しむことになります。寒いと思った瞬間に、その寒さに注意を向けると、温度・風・太陽といった外界の現象が自分の感覚に微妙に刺激を与えていることが分かります。その実態を理解すると、その後の苦しみにもだえる必要はないことが分かってきます。また、瞑想を一時間半ほどしていると足が痛くなることがあります。その時、その痛みに注意を向けると、痛みの程度や質が刻々と変化しているのが分かってきます。そしてほんとうに苦しいのは「痛い・痛い」と痛みに常に反応する自分の気持ちなのだということが分かってくるのです。そういった理解・体験ができつつある今、死の過程は純粋に死の過程で、それ以上でもそれ以下でもない。痛いものは痛いがそれ以上に苦しむ必要もないと思えてきたのです。そして、今までの死の過程に対する恐怖というものが極度に少なくなっているのを感じるのです。また、洞察の瞑想は瞑想中だけのものではありません。諸事象をそのままに受け止めそれ以上に苦難を経験しない姿勢は日常の生活の中で反映されることこそが重要であるのです(この点は、禅宗の教えにも強く反映されています)。

もうひとつの要素は、やはり原始仏教の影響で、物事に執着せずにすむようになってきたことです。よく、どんなに資産を増やしても死ぬときは持っていけないといわれます。これは何も資産に限ったことではなく、地位、名誉、思想、感情など、すべてのことに当てはまります。仏教によれば、このようなことに執着すること自体が苦難だというのです。たとえば、友人や家族に何らかの期待を持ったとします。人に期待をすることはごく自然なことですが、その期待にそってもらえるかどうかというのはまた別の問題です。みんな自分の立場で期待しますが、相手は相手の立場で反応するからです。そんなときに自分の期待に執着することは苦難を何万倍にも増大することに他なりません。自分の期待は単に自分の期待であってそれ以上何ものでもない、それ以上期待に執着しないですめば必要以上の苦難は経験せずにすむのです。これは老後についても同様と思われます。一般に、人は努力して理想的な老後を送ろうと思うかもしれません。自分の将来について想像し、準備することは大切だと思いますが、そのような思いに執着することは苦難以外の何ものでもないと思うのです。その執着のために本当に大事なもの失うことにさえなりかねません。

私も、もう50歳を過ぎ、子育てのため事実上自分のキャリアを捨てた身となり、自分の老後と死についても人事とは思えなくなりました。ただし、私の考えは、特別な老後の計画を立ててそれに執着するのではなく、いかなる老後にも対応できる真の「強さ」を身につけようというものです。現在の社会情勢を見ると、この世の中はどうなるかまったく分かりません。日本には大地震が来るかもしれないし、米国は極度の貧富差から社会異変がおこるかもしれません。自分だって、ホームレスになるかもしれない、身よりもなくなるかもしれないし、野垂れ死にさえするかもしれないのです。そんな時に、非現実的な理想像に取りすがっていたらそれこそ何十苦にもなるでしょう。今の私にとって重要なのは、洞察の瞑想を通して、あらゆる事象をあるがままに受け止め、物事に執着しないということです。特に、どうなるか分からない自分勝手な将来への期待を重んじず、現在の現実の中に大切な意味を見出したいと思うのです。

死の過程をよく理解し着実に実践することこそ生の過程を全うすることに他なりません。生の過程は死の過程そのものなのです。



参考文献


平穏死・自然死について

石飛 幸三.2012.「平穏死」という選択 (幻冬舎ルネッサンス新書 い-5-1)

中村 仁一.2012.大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)

田中 奈保美.2010.枯れるように死にたい―「老衰死」ができないわけ


瞑想・仏教関係

Gunaratana, Henepola. 2002. Mindfulness in plain English, Updated and Expanded ed.

アルボムッレ・スマナサーラ.2011.自分を変える気づきの瞑想法【増補改訂版】

Sogyal Rinpoche. 1992. The Tibetan book of living and dying.

地橋秀雄.2006.ブッダの瞑想法:ヴィパッサナー瞑想の理論と実践.